うむ、これはおもろい。これ、っていうか伊藤亜和おもろい。notoに書いた「パパと私」という文章がジェーン・スーや糸井重里の目に留まり、いつの間にか拡散され、僕のような人間まで気になって手に取っちゃったのだから、なんていうか古い言葉でいうとシンデレラ物語みたいな話で、本人も戸惑ってるはずなのだけど。巻末のジェーン・スーとの対談では、「なぜ、私が?」とは思わず「何もなくて何者にもなれなくて、先がまったく見えない状況だったので、ホッとした気持ちが大きかった」と語っているのが何だかちょっとすごい。これは、後半部分で「私をバケモノだと思っているのは、きっと私だけ。私は、可哀想な存在になることで、何者かになろうとしていた。」という部分とつながっているのだが、何者かになりたくてもがいている彼女の等身大のハートがこのエッセイの核心の部分なのではないかと思う。
大学を出て役者をめざし挫折し、今でもガールズバーでバニーとして働いている彼女。セネガル人の父と日本人の母を持つハーフの彼女。父は「シラフであそこまでリミッターを外せる人間を、私は日本で見たことがない」という人で大ゲンカしてすでに10年も会っていないらしい。しかし、住んでいるのはなぜか彼女の家から1分ほどの場所で夜中の2時ごろ、夜勤に出かけるパパの車に「いってらっしゃい」と静かに声をかけている、というのがなんだかおかしくもあり、寂しくもあり、愛おしくもある。
母親に関しての文章もおもしろい。お母さんは不思議な人で「美人であるのに、美人として生きてきた痕跡のようなものが、母からはなにも感じられない」「いつも浴びるように本を読んでいるが、それを生活や仕事にアウトプットしている様子もない」という観察眼というか、感受性が素晴らしい。
家族のことや周りにいる人々のことなどいろいろ書いていて、ここで書き出したらキリがないのだけど、とにかく伊藤亜和の人や世の中に対する視線、その切り取り方のセンスが特別でおもしろくてタマラない。少し特殊な環境にいるのかもしれない彼女だけど、その心はバランスを失うことはなく、端々にクレバーさが感じられる。そんな彼女への共感がこのエッセイを読む人々を惹きつけて止まないのだろう。巻末の対談とあとがきもとてもいい。
◯勝手に帯コピー(僕が考えた帯のコピー、引用も)
私は怖い。幸せも不幸も努力も、
その本当の手触りを知らないまま
死んでいくのが怖い。
2024.8.1 体操男子、団体も個人も僅差の金、すごいな。女子も頑張った。 読書は逢坂冬馬「同志少女よ、敵を撃て」。
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